パクりは癖になる。無意識にパクリ続ける人が潰れる理由

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「動き」や「技」に著作権はない。

 

著作権のあるコンテンツは勝手にコピーしたりパクったりすると法律で罰せられる。しかし一部の上演作品を除いて「動き」や「技」にはこうした法律の規制もない。

 

かと言ってパクリを重ねる演技はどうなのだろうか?
そもそも技をマネするのと、パクるのは何が違うか?

 

今回はやや敏感な話題である「パクリ」について自分なりの考えをまとめてみた。

- 全てをゼロから始めることは不可能

まず前提として、何かを始めるには「基礎練習という意味でのマネ」が必要だ。スポーツならフォームの練習をするし、勉強なら公式を覚える。大抵はこうしたエッセンスをマネして自分のモノにすることから始まる。

 

さらに言えば、人の動きをマネできるのは1つのセンスである。

センスとは「モノマネ力」である – なわとび1本で何でもできるのだ

 

(※)どこまでを基礎とするか?そもそもオリジナリティのためには基礎なんて必要ないだろ?といった議論もあるけど、今回は一旦保留。

 

物事を学び習得するには「マネ」という過程が絶対に欠かせない。

 

- オマージュには尊敬がある

マネに似た「オマージュ」という概念がある。

芸術や文学においては、尊敬する作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事。また作品のモチーフを過去作品に求めることも指す。しばしば「リスペクト」(尊敬、敬意)と同義に用いられる。

(※)オマージュ – Wikipedia

これは先に上げた基礎練習という意味でのマネとは若干違う。

基礎練習のマネでは「最低限身につけておくと良いよ!」という必修科目。ダブルダッチで言えばベーシックターニングとか、単縄で言えば前とびとか。これがないと何にも始まらない。これは特定の誰かをマネしているわけじゃない。あくまで必修科目として集約された動きマネしているに過ぎない。

 

これがオマージュの場合、この動きは○○さんの動きだね、とか、この動きを見ると○○さんを思い出すといった具合に皆に共通認識される誰かが必ず居る。加えてオマージュしている本人の意識にもオマージュさせてもらいます!という尊敬が込められてる。

 

つまり尊敬からくるマネ、という図式がハッキリと見て取れるのだ。

 

- 手柄だけを横取りするのがパクリ

ではオマージュとパクリは何が違うか?
一言でいえば尊敬の念があるかどうか?だと思う。

たとえば○△という技があったとしよう。
この技を考えたAさんは長い時間の試行錯誤を重ね、やっとの思いでこの技を生み出した。○△は難易度こそ低いが、Aさん独自の視点から生み出されたこともあり、過去に誰もやったことのないオリジナリティを持ってる。

 

Aさんは満を持してこの○△を一般向けに披露。
はじめて見る○△に、観客は技の素晴らしさや出来栄えの良さを評価した。

 

このAさんの○△を見ていたBさん。Bさんも同業のパフォーマーである。

 

Aさんが歓声・喝采を浴びているのを見て、その理由が○△という技だということに注目。この○△はオリジナリティこそあるが、少し練習を積めばBさんにも習得ができるものだった。

 

しばらくした後、Bさんは程なく○△を習得。この技をBさんオリジナルと名づけ一般に披露することにした。元々はBさんの技でないことを知らない大勢の観客は、Bさんスペシャルを見て拍手喝采と歓声を上げた。

これがざっくりしたパクリの流れ。
Bさんが勝手に自分の名前を付けて○△を披露した時、Aさんへの尊敬の念がないのは明らかだろう。加えてBさんは本来Aさんが得るはずだった手柄まで横取りし、時間と労力を最小限に抑えて目的を達成している。

 

- パクリ合いは推奨したい

やや悪意がある書き方をしたが、こうした技のパクリ合いは日常茶飯時に行われている。しかも本人が無意識でパクっていたり、反対に相手にパクられたり。時には本当の偶然で技が被ってしまうこともある。

 

むしろ自分はこうしたパクリ合いは良いことだと思う。

 

なぜならお互いにパクりたい!と思うぐらいに「イイ技」や「イイ動き」を生み出しているのだから、これはもう健全な競争。全部が全部をパクるな!!というのには逆に無理があるし、業界として成長が遅れる。

- 「パクるだけ」の恐ろしさ

問題なのは「パクるだけ」の人達である。
少し前、とあるバイラルメディアが訴訟を起こされ話題になったけど、単に相手の手柄をパクるだけの人々は問題である。なぜなら彼らは二重、三重の意味で損をしているからだ。

 

まず当然ながらパクられた人々の反感を買う。パクられて手柄を横取りされて、穏やかな気持ちで居られる人は少ない。訴訟まで起こさないにしても、反感を持たれる。

加えてパクリ元を知っている人からも反感を買う。パクるだけの人は丸っきりコピーするだけなので「これ○△のパクリじゃね?」と、知っている人が見れば一目瞭然なのだ。(※)これを劣化コピーというらしい

 

そして最も致命的なのは自ら生み出す力が衰弱していくこと。
たしかに人の技や動きをパクれば簡単に手柄を手に入れられるだろう。しかしパクり元に依存するためパクリ元が無くなってしまえばそれまで。

 

慌てて自分で「いいモノ」を生み出そうとしてもそう簡単にできない。そりゃ当然で、今までパクってきた元の人々だって同じように苦労を重ねていいモノを生み出している。しかしパクリ元はいいモノを生み出す訓練を続けているため、継続的にいいモノを生み出し続けられる。一方でパクリだけの人はいきなりいいモノは生み出せず、低いレベルから再スタートすることになる。

 

例えるなら麻薬のようなもの。一時は手柄を挙げられても長い目で見れば何も蓄積されない。自力で生み出すことができなくなった状態にフタをするように、再びパクリを繰り返す。結果、周囲の反感と不信感、自信喪失だけが積み重なって崩壊する。

 

- まとめ

今回は技、動きについてのパクリに焦点を絞って自分の考えをまとめた。
音楽や書籍のような法律で著作権が認められている「作品」では、また違った議論があるだろう。だが著作権侵害のように具体的な罰がなくとも、パクリだけを続ける人は着実に破滅へと向かっていく。

 

創作や表現をする人間として「自らいいモノを生み出せなくなる状態」はどんな罰則よりも厳しいと思う。

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この記事を書いてる人


縄跳びパフォーマー 縄のまっちゃん
 ※本名:粕尾将一(カスオショウイチ)

全国の学校やイベントで縄跳びをつかったパフォーマンスや出張なわとび教室を行い、子ども達に運動の楽しさを伝え笑顔を引き出す仕事をしています。

【略歴】
全日本チャンピオン、アジアチャンピオン、世界大会6位。2010年よりシルク・ドゥ・ソレイユ常設ショー「La Nouba」に6年間約2500回の長期出演を果たす。