なわとびパフォーマーの仕事論

オレ流を叫ぶ人ほど基本を軽視する。我流の落とし穴と問題点。

こんにちは。縄跳びパフォーマーの粕尾将一(@macchan8130)です。

仕事柄、自分はよく縄跳びの演技映像を見ます。でもたまに「イラッ」とくる映像があるんです。

それは基本がない状態でそれっぽく縄跳びの演技をしているモノ。少し前「縄跳び名人」がテレビに出ると聞いて期待していたら、おそらく縄跳びをさほどやっていない人が「それっぽい演技」をしているだけでした。

勝手に人様の演技にイラつくのも失礼な話です。しかし、このイラつきには根深い問題があるのだと気付きました。

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それっぽい演技の背景

最近読んだ「アーテイスト症候群 大野左紀子著」という本を読みました。著書の中では「アーティストになりたい人々」を身近な例を上げながら分析しています。その例に挙げられたタレントの工藤静香さんの絵画。先に挙げたイラつく動画と共通点があると感じました。

天使のせいだけでなく、見れば見るほど微妙に人を苛つかせるものがある。その一番の原因は、たぶん基本的なデッサン力の弱さであろう。

出典:アーティスト症候群—アートと職人、クリエイターと芸能人 (河出文庫) P68

描ける人がわざと崩しているのではなく、描けない人の狂い方に見える。

出典:アーティスト症候群—アートと職人、クリエイターと芸能人 (河出文庫) P68

大野氏はアーティストとして活躍され、引退後はブロガーid:ohnosakikoとして書籍などの執筆をされている方です。大野氏のいう「描けない人の狂い方」は「それっぽい縄跳び演技」にも透けて見えます。

縄跳びには、本書で言われているようなアカデミックな教育はありません。でもきちんと練習をしている人はわかります。動きに無駄がありません。最適化された動き特有の美しさがあります。

ところが、基礎をすっ飛ばした人が演技をすると動きにぎこちなさが残る。前とび、二重跳びあたりを見れば一発でわかります。

素人の画でも、形は狂っているのに人を惹きつける不思議な魅力が合ったりすることは時折ある。しかし静香の絵は、そういう無心なものではないのだ。明らかに上手く描こう、絵としてのまとまりをつけようという欲が見える。

出典:アーティスト症候群—アートと職人、クリエイターと芸能人 (河出文庫) P69

そこでいろいろな小技を使ってみたり、趣向を凝らしてみたりはしているのだが、チープな雰囲気は隠せない。

出典:アーティスト症候群—アートと職人、クリエイターと芸能人 (河出文庫) P69

こうした絵画を、大野氏は「明らかに上手く描こうという欲が見える」「チープな雰囲気」と断じています。これは「近道で盛り上がる演技を作りたい」「手軽に演技を」に置き換えれば、縄跳びにも同じことがいえます。

分かりやすい例だと宙返り。縄跳びの基礎がなくても身体さえ回せれば盛り上がります。また単縄*1のおしり跳び、ダブルダッチのスピード、あたりもここに含まれます。

これらも見る人が見れば一目瞭然。手軽だからやったんだね、とスグにバレます。

「一緒にされたくない」という抵抗感

ではなぜ基礎のない演技を見るとイラッとくるのか。その背景にあるのは「一緒にされたくない」という無意識の抵抗感です。

「こんな基礎もない演技のどこが良いんだ」
「明らかな素人演技と一緒にされたくない」

ようは「これだけ頑張ったんだ!」という自尊心を傷つけられたくない。こうした心理的な拒否反応というか、拒絶感がイラつきの根本にあるのだと考えています。

さらにもう一つイラッとくるのが「呼称(名前)」。それっぽいだけの演技なのに「スゴ技縄跳びパフォーマーの◯◯さんでした〜〜」とかテレビで紹介されてると「…ん?」ってなるんです。

いやいや、これが本物の縄跳びパフォーマーじゃないんだ。もっとスゴイ人が居るんだ、それにこの人は別に縄跳びが決して上手なわけじゃないんだ、ブツブツ・・・。

ポイントは、こうした呼称を利用して一般的な評価を受けようとしていること。つまり「縄跳びのスゴイ人」的な呼称を使っているのに実際の演技は微妙で、にも関わらず呼称に乗っかって一定の評価を受けようとしている姿勢です。

ここまで来ると単なる嫉妬にも聞こえますね。いずれも根本にあるのは「頑張ってきた自分」という自尊心を脅かす「基礎のない演技」に対する反発なのです。

オレ流の落とし穴

以前、奇をてらう事についての記事を書きました。

奇を衒(てら)うのは本当に効果があるか?|なわとび1本で何でもできるのだ

各方面で自分は「基礎が大切だ」と叫び続けています。ただもしかすると、単にここで見てきた「自尊心を脅かす存在」への反発だったのかもしれません。

でも自分は基礎が大切だと叫び続けたい。それは以下に大野氏の述べている意見に心から同意できるからです。

「自分流」は、文脈によって二つの意味に解釈される。一つは基本をきちんと押さえねばならないのに、そこは適当にお茶を濁して自己流でやって失敗した、といった場合。もう一つは「俺には俺の流儀がある」という積極的で自信に満ちた自己流である。
多いのは、物事の見通しが甘い前者だが、その失敗の原因は往々にして後者にある。基本という誰もが通らねばならない道をバカにし、「俺には俺の流儀がある」と自信過剰になっているから足をすくわれるのである。基本をマスターした上で自然と出てくるもの、自分では意識しないが滲み出てくるのが正真正銘の「自分流」だろう。
しかし「自分流」好きな人は、そこんところがわかってない。基本を軽視するのは、プロセスが面倒くさいからである。コツコツやるより、早く結果がほしいのだ。

出典:アーティスト症候群—アートと職人、クリエイターと芸能人 (河出文庫) P227

自分流。自然体。別格。その共通点は、「ナンバーワンよりオンリーワン」である。オンリーワンの自分を評価し承認してほしいという欲求が、「アーティストになりたい」という欲求の根っこにある。

出典:アーティスト症候群—アートと職人、クリエイターと芸能人 (河出文庫) P242

「自尊心を脅かすことへの反発」に加えて、手っ取り早く評価されたいというズルさを感じずにはいられません。引用にある「自分では意識しないが滲み出てくるのが正真正銘の『自分流』だろう」は心から同意できる一文です。

評価・承認されたい気持ちは痛いほどわかります。でもそこをグッと堪えられないようでは、いつかまた「オレ流」を探すアテのない旅に放り出されてしまうのだと思います。

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*1:一人で跳ぶ縄跳び