「価値観を押し付けるな!」と「イマドキの若いものは!」に必要だと思う二つの視点

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photo by Claudio Gennari …”Cogli l’attimo ferma il tempo”

こんにちは!縄跳びパフォーマーの粕尾将一(@macchan8130)です。

未だに古い体質の環境には「新入りは雑務から!」という意識が根強い場所があります。

たとえば部活。自分が高校時代に卓球部に所属していましたが、台の準備と球拾いは一年生の仕事でした。そして二年生は自分のタイミングで練習を始めても良くて、三年生はほとんど自由参加。

そこまで厳しい環境ではありませんでしたが、上下関係と年下が雑務をするという風土が残っていました。

今はこうした考え方が毛嫌いされていますよね。年齢に関係なく実力で評価をするべき!古い固定観念と価値観を押し付けるな!というのがもっぱらの主張でしょうか。

けどこれ、実は「苦労」や「失敗」に根ざした深い問題があると思うのです。

イマドキの若いものは!!はずーっと言われ続けている

いつの時代も「イマドキの若いものは!」と小言を言われていたようです。出典を失念してしましましたが、江戸時代の中期にも、衣服や習慣の乱れを嘆く年寄りがいたとか。当時から世代間の関係性は同じなのかもしれません。

しかし「イマドキの若いものは!」と小言をいう人だって、最初から歳を重ねていたわけじゃありませんよね。誰にだって若い時があって、一年ずつ歳を重ねていくのです。

もしかしたら彼らが若い時にも「イマドキの若いものは!」と言われていたのかもしれません。では、なぜ往々にして年配者は自身の価値観を押し付けたがるのでしょうか。

自身の苦労は美談にしたい

人は、過去の苦労をできるだけ正当化したい生き物ではないでしょうか。自分はまさにこれに当てはまります。

たとえば苦しい練習。基礎練習や過酷な練習を耐えたからこそ、いまのステージがあると自負しています。でも、本当に自分と同じ水準の苦しい練習や基礎がなければ同じ結果を得られなかったか。残念ながらこのサンプルは自分自身しか居ないんです。

きっと画期的な練習方法やトレーニング理論が生まれれば、自分が通ってきた苦労は単なる過去の遺産。それこそ無駄の集積場と言われても仕方ないのかなぁと思っています。

でも理解しているつもりでも、いざ目の前に事実を叩きつけられると…心は穏やかではいられません。なぜなら自分の苦労が否定されると、自分自身を否定されたような感覚に陥るからです。

「雑巾がけ」や「ウザギ跳び」が本当に競技力向上に役立ったかと言われれば、ぶっちゃけ怪しいです。でも「あなたのやっていた事は時代錯誤の無駄だと証明されました。お疲れさん」と言われたら、「オイこらちょっと待て、ウザギ跳びだって…」と反射的に言い返したくなるのが人情だと思うのです。

新旧の価値観には「尊重」と「付け足し」を

自分は「価値観の否定」も「価値観の押し付け」と同類だと考えています。押し付けてきたから否定で返す。これではお互いに否定しあうばかりで歩み寄れません。

ここで必要なのは「尊重」「付け足し」ではないかなと考えてます。たとえ時代錯誤の古い価値観だと感じても、真っ向否定ではただの衝突事故。少々古い流儀や方法論でも尊重し、新しい価値観を徐々に「付け足し」していく。

「古い=悪」と捉えて全てをぶち壊し、ゼロから作り直す方法もあるでしょう。しかし古い価値観の全てが無駄と本当に言い切れるでしょうか。活かせるところは「尊重」し、新しいことを「付け足し」していく。自分はこちらの方が効率的だと感じます。

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